植物は知性を持っているのか
最近、本を読み始めた。
と言っても、ちょっとした学術本である。
「植物は知性を持っている」
最近、本を読むと言ったらこういう本を読むことを指すようになっている。
まだ全部は読んでいないが、なかなかに導入が面白かった。
自分なりにまとめて、皆さんに少しでも興味を持って貰えたらいいと思う。
そもそも、植物は生物なのだろうか。
生物の定義とは何なのだろうか。
高校生物基礎をやっている人間からしたら、問答無用で植物は生物であると答えるだろう。
しかし、それは人がごく最近にそう生物を定義しただけであって、昔の人からしたらそれは当たり前ではなかったのだ。
その中でも有名なもの、ノアの方舟のお話で、洪水が来ると知らされたノアは翼のあるもの、家畜、地を這うものを全てそれぞれ2匹ずつ船に乗せるように神から命じられた。
その中に植物は入っていたのであろうか。
ハッキリとした記述はなく、生物達を集めろという神様の命令の意図を考えると、キリスト教では植物は生物とは考えられていないと見てとれるのだ。
イスラム教も同じである。
偶像崇拝を禁止して、生けるものを絵に写す事がタブーとされているイスラム教の絵は、その殆どが植物の絵らしい。それも様々なものを表現し過ぎて形を留めていないらしいのだが。
となると、やはりイスラム教でも植物は生物としては扱われていないのだ。
ところが、ノアの方舟の話には続きがある。
洪水で助かったノアの一行は、陸に上がることが出来るのかを確かめるために1羽の鳩を放つ。
そして、その鳩がオリーブの葉を咥えて帰ってきたことから、どこかには生物が住める陸地があるという事を知るのだ。
そしてノアは陸に上がると、真っ先にブドウの木を植える。
創世記の話では植物は生物として扱われてはいないが、少なくとも植物が人間が生きていくために必要なものであるという事だけはノアも分かっていたのである。
しかし、ここではオリーブが生、ブドウが再生の象徴として扱われているが、植物全般としては生物として捕えられていなかったのだ。
もちろん、植物を崇めるような宗教も多々あり、同じ旧約聖書を教典とするユダヤ教では樹木を理由もなく伐採する事が禁止とされている。
しかし、このようにして植え付けられた「植物は生物でない」という概念は覆されるまでにとてつもなく長い年月を必要とした。
万物はアトムから出来ていると唱えたデモクリトスのように「植物は人が逆さまになって頭だけ埋まっているような状態であり、移動能力以外の全てを持っている」と言った人物もいたが、当時このような考えは異端とされて大衆には受け入れられなかったのだ。
そして今現在、そんな大きな説を覆して「植物は生物である」というのが定説として成り立っている。しかし、これが定着するまでには何百人もの科学者達の努力が必要だったのだ。
では、「植物は知性をもっている」のだろうか。
ほとんどの人は当然ながらNoと答えるであろう。
しかし、植物というのは動物と比較してもとても優れた生物であり、近年の研究で植物は知性を持っていると考えられる証拠がいくつもあがってきているのだ。
もちろん、植物は知性を持っているというのは大衆に受け入れられるまでには相当な時間がかかるだろう。
しかし、この本を通してあなた達の「植物は知性を持っていない」という概念を根本から覆そうと思うのだ。
さて、どうですか?
少し、読みたくなってきたでしょう??
数日かけてこの記事を書いているうちにちも本はどんどんと読み進んでおり、とても面白く興味深い内容となっている。
生物の魅力とは、全てが人の思った通りではない所である。
「今を生きる生物たちは自然選択を経て進化してきており、人よりもはるか昔に生まれていくつもの困難を越えてきた植物は間違いなくヒトよりも優れた生物である。」
種の起源、進化論で知られるチャールズ・ダーウィンはこのように述べたと伝えられている。
そんな植物は時には私たちに寄り添い、時には私たちの思いもしないようなものを与えてくれるのだ。
あなたも、そんな植物の虜になってみてはいかがだろうか。