名言

 

名言とか格言とか、そのほとんどはいつ誰がどこで言ったのかは分からないけど、物事の本質や世の中の真理を表したような、そういった言葉がある。

そういう言葉たちは誰かの心を打ち、誰から聞いたのかは覚えていないけど、その人の中で言葉だけが生き続けるのである。

 

実は(?)HIP HOPに数年前からハマっているいるのだが、ラッパーの方々は本当に深い名言を残してくれる。少しでも誰かの元に生きてくれればいいなと思って、ここにいくつか挙げてみようと思う。

 

「続けてるだけでは意味ないが、続けなきゃ意味は生まれない」

「『いつまでやる?』って笑えるまでさ」

「生きてる意味は分からないが 死ねない理由ならたくさんある」

「過去にこだわるのは人間だけだ」

「自分が自分であることを誇る そういうやつが最後に残る」

「為さねば成らぬ だから為せば成る」

「『君が君である』たった1つのアンサー それより大切なものっていったい何だ?」

「1人もいない気がする理解者 誰でも頭によぎるリタイヤ

それでも手元に来る未来は 痛みがデカい分輝く光さ」

「二兎を追う者は一兎をも得ず、だけど二兎を追わない者が二兎を得ることはない」

 

本当はまだまだ出したい言葉があるんだが、まあとりあえずこの辺で…

一つ一つの解説もしたいけど、ちょっとまだやらなくちゃいけないことがあるから…

 

そのうちまた、何か書きにブログに戻ってきたときにいろいろと書きましょう。

 

 

 

 

 

椽の下の舞い

 

このタイトルのこの内容は、実は去年の夏過ぎからずっと下書きに書き留められたままだった。しかし、何をどう思ったのかは分からないが、その続きを書いてみようと思う。

 

聖徳太子が建築した大阪の四天王寺の経供養で披露されていた「椽(えん)の下の舞」。いつからそれが行われていたのかは分からないが、昭和40年までそれは一般には非公開で行われてきた秘事である。

しかし舞い手は観客が見ていないにも関わらず必死に練習を重ね、このことからこの「椽の下の舞」という言葉は陰で努力や苦労をすることを指す言葉になった。

 

これが、言わずと知れた「縁の下の力持ち」という言葉の語源である。

 

私はこれまで、というかいつでも、縁の下にいる存在であった。そしてそこから色々な人を鼓舞したり、実はある出来事の裏には私がいたということが結構ある。

 

しかし、縁の下というのはとても居心地が悪いもので、決していつまでも居たいと思う場所ではない。

基本的には誰の目につくでもなく、時々目が合うのは同じ縁の下にいる仲間か私たちが手に負えず縁の下に住むしかなくなったネズミ達。

いつか私も皆の目につくところに行きたいと、誰かを縁の下で持ち上げながらいつも思うのである。

 

だが、縁の下の下には何も無く、下から押してくれる力持ちはいない。だから私が自ら縁の上に登らなくてはいけないのだ。

しかし、自分が縁の上に行っていい人間なのかと何かが私に声をかけ、その葛藤の中で力持ち達は生きているのである。

 

誰かが縁の上から手を差し伸べてくれたら、誰かが縁の下の下から押し上げてくれたら、そんなことを思いながら力持ちたちは今日も生きている。

 

私も、そうやって生きていた。

 

 

 

相棒の苦しみ

 

 

昨年末、とても悲しい出来事があったからここに書き記しておこうと思う。

 

高校に入学すると同時にずっとそばにいてくれた相棒が、年末にかなり危ない状態になってしまった。今はだいぶ回復したんだが、それでももってあと2年だろうと言われた。

 

改めて彼をちゃんと見ると空気が抜けているかのように元気がなく、外見も傷だらけだった。

 

そりゃそうだよな、雨の日も風の日も、俺の無茶に付き合って一緒に走り抜けてくれたんだから。たまにはブレーキが効かなくなる時だってあったが、2人でなんとかここまで乗り切ってきた。

 

 

 

でも、それもついに彼の中で限界が来たんだと思う。

 

 

 

 

 

高校入学と同時に買った自転車がパンクしたのだ。

 

 

 

なんとか修理が済んで走れるようになったが、タイヤは歪んでいるし錆びも多くあるし、まぁもってあと2年だろう。

 

 

どうか、大学を卒業するまでは耐えて欲しいな。

 

 

頼むぜ、相棒。

 

 

怒ってくれる人

 

 

怒ってくれる人がいるっていうのは本当に有難いことで、ちゃんとダメなところを話してくれる人がいるってのも本当に有難いことで、自分じゃ気づけないことを教えてくれる人がいないと人はダメになる。

 

これまでたくさんの人に怒られてきて、たくさんの人が怒られてるのを見て。

これまでたくさんの人に話をしてもらって、たくさんの人が話をしているのを見て、本当にそう思う。

 

そりゃあ怒られるのはいい気はしないさ、思い通りに行かなくて、自分がやって来たことが否定されて、それは間違いだって言われてるんだから。

 

 

でも、それに耳を傾けなくなったら、その人がそれ以上成長することはない。

 

それを素直に受け入れなければ、その人に付いていこうと思う人はいなくなる。

 

 

他の人の声を受け入れることをしないのに、他の人が自分の声を聞いてくれるわけなんかないんだよ。

 

まぁ当たり前なんだよな。

 

 

そして、これまで怒ってくれてた人すらも怒ることを諦める。

 

あいつに言っても無駄だってなって、無言でそいつの意見を聞かないようになる。

 

それに納得いかず声を上げるんだが、当然ながら誰も聞く耳を持たない。

 

それの無限ループ。

 

そうやって孤立になっていくんだけど、自分の悪いところに気づけないから人のせいにして、また孤立していく。

 

 

もう、そこまでいったら誰も救えないですよね。。

 

 

 

 

でも、世の中にはそんな奴に変わって欲しいと思っている人だっている。

 

もう諦めてても、心の片隅できっと変わってくれるんじゃないかと思ってくれてる人がきっといる。

 

 

でもきっとその人ももう寄り添うことを諦めているだろうし、少なくとも俺は諦めている。

 

 

だから、変わりたければ自分から寄り添わなくてはならない。

 

変えたければ、自分から寄り添わなくてはならない。

 

 

 

私は、寄り添われる人になりたい。

 

 

そして、私はその時に怒れる人になりたい。

 

 

 

ずっと、私は怒られる人でありたい。

 

 

 

帰還

 

久々にブログを開いてアクセス数を確認したら、1か月半以上更新していなかったのに定期的に私のブログページを開いてくれている人がいるのに気が付いた。

 

いやあ、ありがたいですね、更新していなかったのが非常に申し訳ない…。

書きたいことはたくさんあるんだけど、ちょっといろいろと忙しすぎていつもブログを書いていた電車の中でさえその余裕がなくなっていたんすよね…

 

定演、選挙、正月、成人式、書きたいことは山ほど。。

 

そして、このブログをパソコンで書いているんだけど、めちゃくちゃ書きやすい…。

今度からパソコンで書きましょかね(。-`ω-)

 

 

ってなわけで、再び再開していこうかと思うので、どうぞよろしくお願いします(`・ω・´)b

 

 

引き金

 

 

今、どこかで誰かと誰かがぶつかった。

同じ時、誰かと誰かが握手をした。

さらに、今この瞬間、誰かと誰かが絶交を誓い、

誰かと誰かが固い友情を結んだ。

 

誰かが発した言葉が引き金になってある場所では争いが起こり、

誰かが発した言葉をきっかけにある場所では笑顔が溢れた。

 

 

そうやって世界は回っていて、いつかどこかで誰かがした事がきっかけで全ては良い方向にも悪い方向にも転ぶ。

 

今日俺が発した言葉が誰かを突き動かすかもしれない。

今日誰かが発した言葉が俺を突き動かすかもしれない。

 

今日、誰かが発した言葉が誰かを突き動かすかもしれない。

 

 

先の事なんて、どうなるかはなってみないと分からないんだ。

 

 

 

 

 

ただ、どうにかなるには引き金がなければいけないんだ。

 

 

 

 

 

 

私はもう疲れたよ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんか、これから死ぬみたいな文だね笑笑

 

安心してください、まだ死ぬにはやり残したことがありすぎて、あと60年は死ぬつもりないので(^ω^)

 

 

 

 

哀れみのイルミネーション

 

 

駅前のロータリーではイルミネーションの明かりが付き始め、年末の忙しさと1人で歩く自分の影の虚しさが心の奥を締め付けた。

 

賑やかな笑い声に溢れる駅前を早く抜け出したくて、私は足早にその場を立ち去ろうとする。

 

しかし、そんな私を引き留めるかのように何処かで懐かしい声が聞こえ、振り返るとそこにはこれまでの憂鬱を全て晴らすかのような笑顔をした女性が立って…

 

 

いるわけねぇだろ!!オィ!!!

 

そんな小説みたいな事が実際に起こるかって話だよ!!

なんとなくで書き出したけどこんなんの続きなんか書ける訳ねえわ!!

 

そもそも俺の最寄り駅ではイルミネーションなんかやってねぇっつ〜の!!!

ってかまともなロータリーすらねぇっつ〜の!!

 

 

あ〜ぁ、何か面白いことないかなぁ〜〜