序章〜美学の美学〜

 

 

「下ネタの美学」という記事をご存知だろうか。

 

2ヶ月前くらい、「上品な下ネタを追究する」と言う謎のパワーワードで一部でそれなりの反響を得た記事。

 

気になる人は少し記事を遡って読んでみてくれ笑

 

 

少し前に「夏の終わり」シリーズを無理やり終わらせ、ブログに書くような面白いネタもなくなってきたので再びシリーズものを始めようと思う。

 

それが、「〇〇の美学」シリーズ。

 

自分が思うところの、これについてはこういうのを追究していきたいみたいのを綴っていく。

 

とりあえず、第1弾は「ツッコミの美学」か、「いじりの美学」のどちらかにしようと思う。

 

 

Twitterに共有するかは分からないけど、定期的に不定期で更新していくので、良かったらお付き合いください(^ω^)

 

 

 

 

願望

 

 

打楽器が上手くなりたい。

 

ただ、それだけ。

 

どこでもどんな曲でも、こいつには安心して任せられるって思われるくらいに打楽器が上手くなりたい。

 

別に病んでるとかそーゆー訳じゃないけど、せっかくこんなに楽しいものに出会わせて貰えたんだから、とことんまで打楽器を極めてたくさん演奏したい。

 

 

願望を願望だけで終わらせたくない。

 

 

ただそれだけ。

 

 

 

上手くなりたい、ただ、それだけ。

 

 

 

 

白と黒の狭間で

 

 

白と黒の狭間に立たされた時、私に割り当てられた色は灰色だった。

 

白とも黒ともどちらとも寄り付かない中間の色。

何もかもが混ざり合って出てこれなくなったその色。

 

 

その色の秘めたものは何なのか、考えても考えても分からない。

 

 

 

でも、その色は白と黒とのバランスの上に成り立っているのは間違いない。

 

灰色の立場に立った時、白から聞こえてくる音と黒から聞こえてくる音とは全く違っていたが、その2つは美しく溶け合って新たな色を作り出す。

 

そしてそこに、灰色の私が鼓動を加える。

 

 

重なり合った音たちはその空間に広がっていき、湧き上がる感情は楽しさ以外の何ものでも無かった。

 

広がっていった音たちは名前も知らない誰かの耳に入り、文字では表せない何かを心に刻む。

 

 

ふと、白色と黒色の視線が重なる。

そしてうっすらと笑みを浮かべると、また再び同じ波長で音楽が流れ始める。

 

白と黒の狭間の灰色にもどこからか笑みがこぼれ始め、その一瞬の高ぶりが様々な感情を増幅させて灰色がより増していく。

 

 

私は白色になることも、黒色になることもできない。

なぜなら、私は灰色なのだから。

 

どれだけ黒を足してもそこに白は混ざっているし、私は灰色から抜け出せないままなのだ。

 

 

でも、それでいい。

 

あの楽しさを、あの一瞬の高ぶりを味わえるのであれば、私は灰色でいい。

 

 

 

もし叶うなら、もう一度白と黒とが溶け合ったあの音を聞きたい。

もし叶うなら、もう一度あの音たちに確かな鼓動を加えたい。

 

 

もし、叶うなら。

 

 

もし、叶うのであれば、私は白と黒の狭間でずっと灰色でありたい。

 

 

 

 

リア充が爆発した話

 

 

なんだろう、物凄く清々しい夢を見たから書き記しておこうと思う。

 

 

なんか、俺らはチームに分かれて戦っていた。

それぞれは役職によって戦い方が違って、剣とかナイフを使う人、銃を使う人(頭を打たなければ意味が無い)だとか色々いる中で俺は爆弾使い、ボマーだった。

 

しかも、男は3機、女は2機という謎のルール。

まぁ夢だからな。

 

そして、1日目の残り3分くらい、俺のチームは相手チームの2人を見つけて、その2人を殺しにかかる。

 

その2人というのが、最近俺の周りでカップルになったことが知られた2人。

 

2人とも剣使いで、仲間が戦っているうちに俺は周辺に時限爆弾を設置していた。

そして終了間際、仲間が爆弾のある方に引き寄せて爆発させると、2人がもろに爆弾を喰らって1機ずつ減る。

 

喜んでいるのも束の間で、2人のゲーム復帰は予想以上に早く近くにいた俺に襲い掛かってくる。

 

丸腰の俺。

爆弾使いで剣を持たない俺は絶対絶命。

 

 

しかし、2人が俺を切ろうとしたその瞬間に特大の爆弾を地面に投げつけ、その2人を巻き込んで自爆。

 

 

男は1機を残して翌日のゲームに、女は0機となってゲームオーバー、そして俺は2機残して翌日へ。

 

 

自爆するために懐から爆弾を出した瞬間に2人が物凄く焦っていた事を覚えている。

 

 

 

そんな所で目が覚め、なんだかとても清々しい朝になっていた。

 

 

別に、私はリア充撲滅運動家でもなんでもないし、その2人は私が頑張って背中を押した2人だから爆発しろだなんてこれっぽっちも思っていない。

 

 

でも、文字通り、「リア充が爆発」した。

 

 

そして、「リア充と爆弾」した。

 

 

 

 

うん。

 

 

清々しかったんだけどね、うん、とても清々しかったんだけど、、

 

 

 

 

なんだろう、色々な意味で物凄く心が痛む。

 

 

 

 

 

 

脈なし

 

僕は確信した。

絶対にこの子は脈なしなんだ。

 

部活で出会ってから数ヶ月、何回か話したことはあったけども、最近はめっぽう冷たくなっている。

 

僕じゃ釣り合わないのだろうか。

 

 

そんな彼女が、ふと部室に入ると1人で寝ている。

とても幸せそうに眠っているが僕はもう気が気じゃないんだ。

 

もう一度確認してみようか。

 

やはり、脈はなかったみたいだ。

 

 

こんな状況でも、まだ間に合うのだろうか。

とりあえず、僕は携帯を片手に救急車を呼んだ。

 

 

 

植物は知性を持っているのか

 

 

最近、本を読み始めた。

 

と言っても、ちょっとした学術本である。

「植物は知性を持っている」

最近、本を読むと言ったらこういう本を読むことを指すようになっている。

 

まだ全部は読んでいないが、なかなかに導入が面白かった。

 

自分なりにまとめて、皆さんに少しでも興味を持って貰えたらいいと思う。

 

 

 

 

そもそも、植物は生物なのだろうか。

生物の定義とは何なのだろうか。

 

高校生物基礎をやっている人間からしたら、問答無用で植物は生物であると答えるだろう。

 

しかし、それは人がごく最近にそう生物を定義しただけであって、昔の人からしたらそれは当たり前ではなかったのだ。

 

 

キリスト教の教典、旧約聖書

その中でも有名なもの、ノアの方舟のお話で、洪水が来ると知らされたノアは翼のあるもの、家畜、地を這うものを全てそれぞれ2匹ずつ船に乗せるように神から命じられた。

 

その中に植物は入っていたのであろうか。

ハッキリとした記述はなく、生物達を集めろという神様の命令の意図を考えると、キリスト教では植物は生物とは考えられていないと見てとれるのだ。

 

 

イスラム教も同じである。

 

偶像崇拝を禁止して、生けるものを絵に写す事がタブーとされているイスラム教の絵は、その殆どが植物の絵らしい。それも様々なものを表現し過ぎて形を留めていないらしいのだが。

となると、やはりイスラム教でも植物は生物としては扱われていないのだ。

 

 

 

ところが、ノアの方舟の話には続きがある。

 

洪水で助かったノアの一行は、陸に上がることが出来るのかを確かめるために1羽の鳩を放つ。

そして、その鳩がオリーブの葉を咥えて帰ってきたことから、どこかには生物が住める陸地があるという事を知るのだ。

 

そしてノアは陸に上がると、真っ先にブドウの木を植える。

 

創世記の話では植物は生物として扱われてはいないが、少なくとも植物が人間が生きていくために必要なものであるという事だけはノアも分かっていたのである。

 

しかし、ここではオリーブが生、ブドウが再生の象徴として扱われているが、植物全般としては生物として捕えられていなかったのだ。

 

 

もちろん、植物を崇めるような宗教も多々あり、同じ旧約聖書を教典とするユダヤ教では樹木を理由もなく伐採する事が禁止とされている。

 

 

しかし、このようにして植え付けられた「植物は生物でない」という概念は覆されるまでにとてつもなく長い年月を必要とした。

 

万物はアトムから出来ていると唱えたデモクリトスのように「植物は人が逆さまになって頭だけ埋まっているような状態であり、移動能力以外の全てを持っている」と言った人物もいたが、当時このような考えは異端とされて大衆には受け入れられなかったのだ。

 

 

 

そして今現在、そんな大きな説を覆して「植物は生物である」というのが定説として成り立っている。しかし、これが定着するまでには何百人もの科学者達の努力が必要だったのだ。

 

 

では、「植物は知性をもっている」のだろうか。

 

ほとんどの人は当然ながらNoと答えるであろう。

しかし、植物というのは動物と比較してもとても優れた生物であり、近年の研究で植物は知性を持っていると考えられる証拠がいくつもあがってきているのだ。

 

もちろん、植物は知性を持っているというのは大衆に受け入れられるまでには相当な時間がかかるだろう。

 

 

しかし、この本を通してあなた達の「植物は知性を持っていない」という概念を根本から覆そうと思うのだ。

 

 

 

 

 

さて、どうですか?

 

少し、読みたくなってきたでしょう??

 

数日かけてこの記事を書いているうちにちも本はどんどんと読み進んでおり、とても面白く興味深い内容となっている。

 

 

生物の魅力とは、全てが人の思った通りではない所である。

 

「今を生きる生物たちは自然選択を経て進化してきており、人よりもはるか昔に生まれていくつもの困難を越えてきた植物は間違いなくヒトよりも優れた生物である。」

 

種の起源、進化論で知られるチャールズ・ダーウィンはこのように述べたと伝えられている。

 

 

そんな植物は時には私たちに寄り添い、時には私たちの思いもしないようなものを与えてくれるのだ。

 

 

 

あなたも、そんな植物の虜になってみてはいかがだろうか。

 

 

 

 

スクランブル交差点

 

 

朝、通勤ラッシュ。

上りの急行列車が大きな駅に到着し、大量の人が電車から降りていく。ざっと見回す限り、250人ほどいるであろうか。これが都心であれば、電車が着いた瞬間に1000以上もの人が数秒間のうちにホームになだれ込むのだ。

なんとも言えない光景が広がるんだが、私はいつも思うのだ。

 

 

よくぶつからないよなぁ。

 

 

そりゃあ、肩と肩が当たるくらいはあるさ。

 

 

でも、顔と顔がぶつかったり、思いっきり正面衝突なんてのはほとんどない。

 

 

 

 

渋谷のスクランブル交差点。

 

あんだけたくさんの人がいろんな方向に歩いてて、よくもまぁぶつからないもんだ。

 

様々な方向から来る人が何百もの箇所で交差するのはもはや芸術性を感じる。

 

 

目の前の人を上手くかわしたらすぐに次の人が現れる。

 

人の脳は、目の前の人を避けるだけではなく視界全体の情報を処理してその周りの人がどのように行動するかを予測する。そして、目の前の人を避けた後もほとんどがその予測通りに人が動くため、ぶつからずに人と人との間を止まることなく進んでいく。

 

それを、スクランブル交差点にいる何百人もが同時に行っている。

 

 

人の脳の情報処理能力はえげつないなぁといつも思うのだ。

 

 

 

 

もしコンピューター上で点を人と見立ててランダムに動くようにシュミレーションしたら、1つも点同士がぶつからないなんて事は起こりうるのだろうか。

 

学習能力のある点をぶつかったら消えるようにして出来るだけ長く動き続けるように命令したら、人のように動けるようになるにはどれだけかかるのだろうか。

 

 

 

 

 

普段何気なく生きていても、少し考えてみるだけで生命科学というのはとてつもなく面白いものになる。

 

 

私はそんな魅力に取り憑かれているのだ。